2人の創始者

「瓦職人」樋口市郎(ひぐち いちろう)

樋口市郎(1863-1943)は新潟県亀田(現新潟県新潟市江南区)の出身で安田瓦の職人でした。

彼は瓦職人の修行を終え、新天地を目指し明治20年頃喜多方の若喜商店(醸造業)に住み込みで働く傍ら、喜多方で瓦の生産ができる適地を捜し歩くようになります。

ある時、良質の赤土と燃料の赤松が揃った三津谷地区にめぐり合い、瓦窯の建設を決めましたが、創業ともなると多額の資金が必要となることから、市内の有力者数人に出資の協力を得て、登り窯を建設することとなりました。

明治23年、市郎27歳の時であり、以後連綿と続く瓦と煉瓦の生産を担った樋口窯業「三津谷の登り窯」、喜多方における近代化産業の先駆けとなりました。

「煉瓦師」田中又一(たなか またいち)

田中又一(1881-1969)は喜多方市岩月町の出身で、12歳のとき煉瓦師に憧れ東京へ出立しました。住み込みで働きながら修行先を探し、とうとう清水組(現清水建設)のお抱え煉瓦師であった親方の元で修行の日々を送ることとなります。

明治27年当時、東京では国策による耐火構造建築が進められており、又一は幸運にも最先端で一流の煉瓦建築技術を習得することができました。

明治33年修行を終えた又一は、喜多方初の煉瓦師として開業します。
又一が手がけた煉瓦蔵は、喜多方式木骨煉瓦造りでイギリス積みが採用されております。
また、多彩な装飾もあいまって瀟洒な煉瓦蔵が多いのは、当時、一流の技術を習得してきたおかげであるともいえます。

さらには、明治末期には岩越鉄道(現JR磐越西線)慶徳隧道建設工事を手がけるなど、土木工事等にも多く活躍し、それらは今でも現役で運用されています。

2人の出会い

喜多方で最初の煉瓦建築である岩月尋常小学校の建設は、明治35年、樋口市郎と田中又一の共同作業によるもので、完成後、まちの人々はあまりの綺麗さに「花嫁学校」と称するようになりました。
以後、煉瓦のすばらしい魅力を感じた人々は、若喜商店煉瓦蔵、三津谷煉瓦蔵群を代表とする煉瓦の蔵をはじめ、様々な煉瓦建築物を建てるようになり、喜多方における煉瓦文化の幕開けとなりました。